大学生ゲイのつぶやき

理系大学院ゲイがいろいろつぶやきます。

性犯罪

どうしても街中を歩いていると、イケメンを凝視してしまう。

イケメンというより、ごく普通の青年に惹かれる。

これが厄介で、好みの幅が広いのだ。

変な下心は隠しておくのが良いが、最近余計に欲求が強まっている。

もちろん犯罪などは犯さないが、よく耳にする同性愛者の教師の、生徒への性犯罪など、その動機はほんの少し分かる。

念の為言っておくが、そのような犯罪は絶対に許してはならない。

しかし、凶悪な殺人事件と比較して、そのような性犯罪は「少しは」理解できる方だ、と言いたいのだ(綺麗事はなしに)。

匿名なのでこんなことが書ける。

 

 

ポルノ断ちの格闘

私はポルノを中学生くらいの頃から見ている。

今も、悪いと思いつつも、やめられない。

インターネットは便利になった一方、こういう中毒者を産むので憎い。

対策はいろいろ取っている。

1、ポルノ=悪であると認識する

2、見る時間がないほど忙しくする

3、デバイスの設定で、アダルト系サイトをブロックする

4、特定のサイトをブロックするアプリをダウンロードする

 

しかし、いずれの対策も無駄になることに気づく。

まず、ポルノ=悪だとどれだけ認識しても、麻薬や酒タバコと同様に、既に依存している以上、気持ち良いという感覚が勝って、自制できない。

 

次に、忙しくすると、ストレスが溜まり、見てしまう。

3、4に関しては、面倒でも解除方法が分かるので、意味がない。さらには、その解除方法を繰り返しているうちに、だんだん慣れてきて、解除が容易くなる。

 

性欲は抑えられない。特に、私はいわゆる普通のノンケっぽい人が好きだから、タイプの人は周りにたくさんいる。よって、日常生活でもポルノを連想し忘れることはできない。

 

だめだ、と分かっていても見てしまう。

自分の意志ではもうどうしようもできないように思う。。。

身近な水のせせらぎ

住んでいるアパートの向かいの家には、ちょろちょろと水がずっと流れている。

おそらく地下水であろう。

その音がとても好きで、部屋の机は、その音が最もよく聞こえる窓辺に設置している。

家は敷地の中だけで完結するものではない。

周辺の環境から、その中身が決まるというのは、極めて自然である。

 

自己否定と自己肯定の狭間

最近、自己否定をしつつも、自己肯定をする、そのバランスは一体どうすればいいのか考えている。

自己肯定しすぎると、満足感は得られるが、驕りが出たり、見下したりしてしまう。

逆に自己否定し過ぎると、精神的に追い詰められるし、何よりも寂しい。

何も考えず、目の前のことに没頭する、無の状態が最も精神衛生上良いのではないか。

大学生は時間があるのにお金がなく、こういったことを考えてしまいがちだ。

 

仕切り直し

ここ最近、思わぬイベントがあり忙しく、ブログの毎日更新が途絶え、かつ3週間続いたオナ禁もついに破ってしまった。

しかし、後悔はしていない。これから、また続ければ良い。

気づいたことは、オナ禁ではなく、ポルノ禁の方が重要なのではないかということだ。

射精はごく普通の生理現象であるが、ポルノは超常刺激と呼ばれる、極めて危険なコンテンツである。

オナ禁中、出さなければ見ていいのだ、というルールを設けていたが、これはかえって良くないのではないか。増幅する性欲により、時間を永遠に浪費してしまう。終わりが見えない。

これまでポルノを見るのが習慣化してきた私は、簡単にやめることは出来ないだろう。

しかし、こうしてポルノの危険性を認識し、言葉にして書いているということは、大きな一歩だと思う。

ポルノの危険性を徹底的に言語化する必要があろう。

自分の将来のために、自己実現のために、時間を使いたい。

この世の中は、善悪がそう簡単につけられるものは少ないが、

【ポルノ=絶対悪】

である。ポルノは悪である。絶対に見てはならない。他人が見ている分には構わない。しかし、ポルノは悪である。脳が萎縮する。時間を浪費する。課金もいつかはしてしまうかもしれない。現実で関係を作る。現実世界で出会う。楽しむ。

 

目標を立てて頑張る

このブログは自分への戒めの意味も込める。

今まで甘えた生活をしてきた。

そんな自分を律し、少しでも世のために貢献できる人になりたい。

人間だから怠けてしまうこともある。

ただ、日々、やるべきことをやり、目標を立てて、有意義な生活を送りたい。

後悔してもしょうがない。死はすぐそこと思え。

このブログ、1日1回更新することを目標にする。

多様性を謳い無関心な世の中

近年多様性がキーワードとして挙げられている。

マイノリティーに配慮しようと、社会全体で動いていること自体は素晴らしいと思う。

ここで、マイノリティーとは、私に関わりのある、障害者とLGBTQを挙げる。

しかし、少し気になるのは、

「好きにすればいい」

「いろんな人がいてもいい」

「ふーん、という程度。」

といった、一見分かったフリをしたような論調である。マイノリティーに無関心であるともいえる。

確かに、自分とは指向が異なることに関しては、理解できないので、そのように思う気持ちは分かる。

自分のことで精一杯だし、マイノリティーが声を上げたりニュースで取り上げられても、好きにすれば?という気持ちになるだろう。

私も働き始めれば、そんなに関心を持たないかもしれない。

しかし、このような「私は差別しませんよ、好きにしてください」という無関心な方が増えるのはあまり良くないと思う。

なぜなら、いつかは自分にとって都合の悪いことが起こるからである。

私はゲイだが、友達がゲイだったら、本当に同性愛を受け入れられるのでしょうか。多少は気持ち悪いと思わないのでしょうか。

また、世の中には障害者の方がたくさん居ますが、電車の中で奇声を上げる知的障害の方や、他人の自転車をペロペロ舐めてしまう方を、本当に「好きにすればいい」といって突き放すことが出来るのでしょうか。

自分にとって見たくないもの、されたくないものは避けることが出来るにも関わらず、インターネットを通して莫大な情報を得て、マイノリティーをはじめ社会を理解した気になってしまうのは良くないと思う。

良くないというか、寂しい。

無関心でいるよりも、実際にマイノリティーが側にいることを認識し、時にはぶつかりながらも理解してゆくことが必要ではないだろうか。

マイノリティーを腫れ物扱いし、都合の悪いことは避けて、避けて、避けて、好きにすれば?というのは、あまりにも寂しい社会だと思う。